Oprah Winfrey's 2008 Stanford Commencement Address 和訳

Oprah Winfreyによる、2008年スタンフォード大学での卒業招待スピーチを訳してみたいと思います。

オプラさんは日本ではあまり知られていませんが、世界一金を持ってる女性らしいです。ニュースのアンカーから、のし上がったという。彼女の経歴や、どう考えて行動してきたかを語ります。僕はこのスピーチを毎日の通勤時に輪唱し、30分すべて彼女に合わせてしゃべれるほどになりました。同じことをSteve JobsのスピーチJ.K Rowlingのスピーチでも行いました。これをやることにより、発音が矯正されたというか、舌が口の中でよく回るようになりました。半年くらいやったかなあ。Stanfordオフィシャルサイトにおける、トランスクリプトはこちら

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若者たち、ありがとう。'08! ('08!) ヘネシー学長、理事、委員会役員、そしてご両親たちと祖父母の方、何より、あなたたち卒業生の皆さん。この素晴らしい日にお招きいただきどうもありがとう!このスピーチを始めるにあたって、みなさんにちょっとした秘密をお知らせする必要があります。それは、コービー・バンパス。今日ここに卒業する彼女は、私の名づけ子です。ですから、今日がコービーが大学に入って以降私は初めてここに来ることを許されたわけで、ヘネシー学長が私に卒業式講演の依頼をくださった際はとてもワクワクしました。コービーはとても賢い子なんです。彼女曰く彼女は自分の手で交友を広めたかったようで、彼女と(有名な)私が知り合いということを知られるのは彼女にとって好ましくありませんでした。ですから、新入生オリエンテーションの日、彼女が母、私とはじめてスタンフォードに訪れた日、それはそれは皆が歓迎ムードなのを私は傍から見ていて、それで誰かがコービーの元にやってきて、『あら!ゲールキングじゃない?!』(私とゲールキングが親友ということは有名です) コービーはつれない様子で、「ええ、私の母ですが。」 その人たちは、『あらまあ!ってことは、オプラフィンフリーと知り合いなの?』 「まあ、そんな感じ。」 「”そんな感じ”?!」、思わず私は口を挟みました。私とコービーはそんな関係?いやいや、私には証拠写真たちがあります。なんならここにいる皆さん全員にメールで送ることもできます。私が四つんばいになって、コービーがお馬さんごっこをしてる写真とか。”そんな感じ”どころじゃないんです。そういうわけで、今日私はここにこれてとても嬉しいのです。入学から4年が経ち、遂にコービーの卒業式、しかも生理学と心理学、彼女のこの2つの学位を祝うにあたってこんないい場所が他にあるでしょうか?コービーケーキ、愛してるわよ!ケーキと呼べるくらい仲良しなんです。そして彼女をこの日まで支え続けたご両親、兄弟のウィルを誇りに思います。私に出来ることは特に何もありませんが、でも、ここ数週間もし誰かが私に何をしているか訊ねたなら、きっと私はこう答えたでしょう。「スタンフォードに行く準備をしてるの」


ただ”スタンフォード”っていう響きが好きなんです。でも、私はテネシー州立大に通ったのでスタンフォードで卒業することはついぞなかったのです。そして、僅か1単位足りなかったために1975年に卒業予定だったテネシー州立大を卒業することができませんでした。大学のことについては忘れるつもりでした。19歳で2年生、その時には私は既にテレビに映っていて、私は11時の門限がある唯一の10時のニュースキャスターで。父は、真剣に『10時半にニュースが終わるな?11時までに帰ってくること。』 でも私には収入があって、自分の道を歩んでいたからそんなことは大した問題じゃなかった。だから、1単位たりないまま大学をやめることにしました。でも父は、そこから何年たっても、そのことに対していつも私に文句をいっていました。だって私は卒業しなかったから。『オプラ・ゲイル(私のミドルネーム)――学位なしで何をするのかさっぱりわからん。』 私は、「でも、父さん!私は自分のテレビショーがあるのよ?」 彼はとりつくしまもなく、『だからなんだ。全然わからん。』 「でも!私はトークショーの司会者よ?」 『学位なしで他の職にあり就けるとは思わないが?』


そんなこんなで、テネシー州立大学は1987年に私を卒業式の講演者として招いてくれました。それまでに、私には全国ネットの自分のテレビ番組があって、映画を作って、オスカーにノミネートされて、ハーポという会社作っていました。でも、父はずっと同じ調子だったので、もう1単位をとることがない限りスピーチすることはできない、と大学側に伝えました。そういうわけで父の認識を覆すために私は課題をこなし、最終レポートを提出し、無事学位を授かりました。父はとても誇りに思ってくれ、私自身にとっても、将来なにが起ころうともこの1単位が私の救済となることには疑いを挟む余地がありません。


でも、何故父はそこまで学位に固執したのでしょう。私にはよく分かっていました。それは、B.B.Kingがかく記したように、”学ぶことの美点とは、誰も貴方からそれを奪えない点にある”という所です。ここの学ぶというところには多岐にわたる捉え方があり、貴方の教育はここで終わるわけでなく、むしろいろんな意味で始まったばかりなのです。この世は我々に対し、たくさんの課題を投げかけます。この星はあたかも大きな一つの学校で、私たち一人一人の人生は一つの教室のように私には思えます。そして、時にはこの”地球大学”はしばしば回り道や通せんぼの石へと姿を変えて私たちの前に現れます。時には、全てを吹き飛ばすような大きな障害も。そんな中で絶えなく前進を続けていくための私の秘密は、この広大な地球大学、もといこの世そのものからのレッスンを、シンプルに受けいれること。そうすることで私たちは人生に熱くなり、自らを高めていくよう歩んでいけるのです。私たちは一人の人間として、そのためにここに存在しているわけで、より自分らしくなるよう、次のレベルの相互理解へ、次のレベルの思いやりへ、次のレベルの成長へと、常に動き続けていくのです。


私がいままでもらったお世辞たちの中にこんなものがあります。新人の頃にとあるレポーターと一緒にシカゴでインタビューをしていました。数年後、彼女と再会したとき、彼女曰く「知ってる?あなたぜんぜん前と変わってないわよ。もっと貴方っぽくなっただけ。」。それはその頃私たちが目指していた姿であったわけで。どんな経験、何事にも教訓があると私は信じていて、その教訓をとらまえることで前進していくことができ、自身の魂を豊かにしてくれると思うのです。で、信じてください(※2)、内なる英知は富よりも大事なものです。それは使えば使うほど、もっと得られるもの。というわけで、今日はちょっとだけ教訓をお話したいと思います―――ちょっとって、3つだけ。私のいままでの人生で学んだもの。そう聞いてどう思います?嬉しい?誰かが、「今日は少しだけ話を・・・」とかいって蓋を開けると10個くらいで、うざくない?で、貴方たちは『ちょっと待ってくれよ、今日は俺の卒業式で、あんたの講演会と違うよ』なんて思うことうけあいでしょ。だから、3つだけにします。この3つの教訓は私の人生で重要な意味合いをもたらしたもので、それは――気持ちとともにあること、失敗すること、幸せを求めてすること。


私が大学を去って一年が過ぎたときに、バルチモアで6時のニュースの共同司会者という好機に恵まれました。その頃、メディア界の中で、私にとって形を成してきたゴールとは、もっと大きな市場にステップアップすることでした。バルチモアはナッシュビルより格段に大きかったのです。だから、22歳で、6時のニュースのナレーターだなんてえらい仕事だったわけで、自分にとって世界で一番大きい仕事をやっているんじゃないかだなんて感じたぐらいです。とても満足でした。なぜなら、遂に、TV界に入った当初からライバル視していたバーバラウォルターのようになれる機会を得たからです。私は22歳で、22,000ドルの年俸でした。そこでインターン生として来ていた親友のゲイルと出会い、彼女曰く、「信じられない、22歳で22(,000ドル)?!じゃあ40歳で40(,000)ね!!」 いやはや、40歳になったとき、そうならなくて本当によかったわ。というわけで、22歳で22,000ドルで、でも、何かがしっくりと来ませんでした。ヘネシー学長が話してくださったように、その初めての指標が、テレビ局のクルーが私の名前を変えようとしたときでした。その時、ディレクターが私の元にきて、「誰もオプラなんて名前おぼえないよ。だから、名前を変えたいと思ってるんだ。んで、覚え易くて好かれる、いい名前が浮かんだよ。スージー。」 やあ、スージー。めちゃフレンドリー。スージーには怒れないよね。でも私の名前はスージーじゃない。わかると思うけれど、私は自分の名前があまり好きじゃないまま育ちました。だって、どこの弁当箱をみても、免許証のタグをみても、貴方はオプラなんて名前を見つけることがないでしょう。だから自分の名前が好きじゃなかったけれども、一度そうやって名前を変えるかだなんて言われてみると。いいえ、私はやっぱりオプラで、何よりも私スージーに見えますか?―いやいや違う、これは正しくない。私は名前を変えないことにしよう。誰におぼえてもらわなくたって構いやしない。それどころか、彼らは「あんたの見た目が好きじゃないんよね」なんて言いやがりました。1976年では、上司はそういうことが言えたのです。今なら訴訟もんと言われるやつです。後ろにいるみなさん、よくわからなかったら、とにかくバーバラウォルターからはかけ離れている、という話です。というわけで、彼らは私を美容室に送って、パーマをあてたところ、数日後に髪が抜けきってしまったので頭を剃りました。更に見た目は好ましくなくなりました。だって、私は坊主で黒人で、テレビ映ってるんですもの。いいもんじゃないわ。


そして、それよりも、より輪をかけて悪かったことがありました。毎日の業務として赤の他人の不幸をレポートしに派遣されることが、憎くて、憎くて。私に期待されていたのはただ観察することであったのはわかっていたのです。けれども、私の直感が何かしようとしたり、手を差し伸べようとしたり働きかけていました。だから、ヘネシー学長が触れたように、私は火を消そうとしてまた戻って、そしてまた被害者に毛布をあげようとしたり。そんなことを一日中やっていて、いつしか私は眠れなくなっていきました。一方で、私はバーバラのように穏やかにカメラの前に座り、バーバラのように喋っていました。おどけたバーバラのように作れていると思っていたのです。もし私らしくあるべきとわかっていたら、いいオプラであれたのに。バーバラのように優雅にしゃべるよう心掛けていました。そして、私の中の何かが“これは自発的であるべき”と語りかけるので、台本を読まないこともままありました。ニュースの提供者として、受け取ったそのままを知らせたかったからです。だから、時々ニュースの台本を読まないことがあって、こんな感じでした。“I-40で6名が衝突事故。まあ、なんてこと!”。自発的で自然になりたかったから――台本を読まないときもあって――よく知らない言葉にでくわして間違えることもありました。ある日、コピーを読んでいてカナダを“カナアダ”って・・・そういったこともあり、このバーバラ作戦はうまくいくことがないだろうと悟ったのです。自分らしくあるべきと。


しかし、時を同じくして、私の父は“オプラゲイル。これは千載一遇のチャンスだ。この仕事を続けたほうがよい。” また、ボス曰く、“これは夜のニュースで、君はレポーターで、ソーシャルワーカーじゃない。ちゃんと仕事をしろ。” だから私は、期待や義務といったこれらのメッセージをこねくりまわして、惨めな気持ちになっていました。毎夜家に帰り、日記を開き(15歳から日記を書いてるのでかなりの量です)、私がどれだけ惨めで鬱憤が溜まっているか書き上げるのでした。日記を書いて、心配を払拭することが私の癖になったのはこのころからです。彼ら曰く私は感情的すぎるとのことで、8ヵ月後、私はクビになりました。契約満了までのつなぎとして、バルチモアでのトーク番組の司会者に異動となりました。そこに座ったとき、息をするかのようにしっくりきて、ここが正しい、と感じたのです。その場所が私がそれから追っていくものの始まりだったのです。そこから教訓が得られました。あなたが意義あると感じる仕事をしているとき、その時正しいと感じることでしょう、そして毎日はギフトとなります。貴方が何を持ってお金をもらっているかにかかわらず。


本当ですよ。でも、どうやって正しいことをしているか判断するのでしょうか?まさしくそう感じます。あなたの感性は優れたGPSシステムということを知りました。やるべき事、やらざるべき事は、貴方の感情誘導システムがただ示してくれます。ここで学ぶべきコツは、ドアの前にたって自尊心をチェックして、後は本質をチェックすること。今まで下してきた正しい判断は、全て私の直感によるものです。そして今まで下してきた間違った判断は、全て私が自身の中にある大いなる声に従わなかったことによるものです。正しいと感じなかったら、やらないこと。これが教訓。これひとつで悲しみたちからあなた、みなさんを救います。疑惑ですら間違いというを示します。これが学んだこと。何をしていいかわからない時がたくさんあるでしょう。何をしていいかわからなかったら、ジッとしていること。とにかくジッと、物事がクリアになるまで。そして、あなたがジッと静観しているとき、内なる動機を駆動力とさせること。そうすることによって、単に生活が改善するだけでなく、同時にこの競争社会の中で有能な人材になれます。


長すぎて今回は力尽きました。続きはまた書きます。